刷り込みと行き先
昨日はお通夜、今日は葬送式(お葬式)、それから仕事。精神的にけっこうきつい昨日今日。
しかし、それでも、お腹は空くし眠くなる。年を経るのはいいのか悪いのか。余計なことも考える。
今回はプロテスタント式だったのだが、学生時代に刷り込まれたのがカトリックなので、比べてみると、いろいろ違いを感じる。お祈りや典礼のことばが口語だとか、聖歌(プロテスタントだと賛美歌か)が違うとか。
ダイアナ妃の葬儀をテレビで見たときに(イギリス国教会はプロテスタントだよね)賛美歌が思いっきりホルストの「木星」だったので驚いたのだが、今回は、シベリウスの「フィンランディア」が出てきたので驚いた(賛美歌291番)。あの勇壮な部分じゃなくて中間部の静かなところ。最近よく聴いていた曲だったので驚きもひとしお。プロテスタントの賛美歌はそういう借用がありなのかなあ。それとも逆ルート?
好みはカトリック式なんだけどね。刷り込みのせいかしら。
刷り込みといえば、同じようなことを、ローマに行ったときも感じたのだった。なにせローマンカトリックの本場なので、教会が山のようにあって、ほとんど観光地化している。で、ベルニーニが見たいとかカラバッジオが見たいとなれば教会に行かざるをえない。
アメリカ人らしき人々は、ミサをやっていようと何だろうとずかずかと入っていって美術館みたいに振る舞っているんだけど、刷り込みがあると、とてもそうはいかず。聖水で十字を切って礼をして入らないと気持ちが悪い。そのときに、おお刷り込まれている〜教育ってすごい、と実感したのだが。
(考えてみれば、神社の前を通るときは頭を下げたりもしているんだけど)
「聖テレジアの法悦」(だったっけ)を見に行ったら、ちょうどミサが始まってしまったのだった。
観光客はいたのだけれど、あまり大きくない教会で、とてもじゃないけど横で見物はできず。
ついミサに出てしまった。
イタリア語は皆目わからなかったけど、「エリ!エリ!レリ!サバクタニ!」で、受難節で聖書を読んでいることがわかったのだった。カトリックの学校出身で便利なのは、ミサに出ても困らないことだな。
で、昨日今日で自分のときはどうしようと思ったのだが、無宗教よりも宗教があったほうがいろいろな意味で楽かなあ、と思ったり。実家は浄土真宗だけど、なしくずしに葬式は何となく嫌だ。密教の方が面白そうだし、考え方では神道のほうが納得はいくんだけど、なじみがあるのはカトリックだし。
神様にたどり着く道はどう行っても同じなので(ああ汎神論)、まっとうな(教祖が私利私欲に走ってない)神様ならどれでもいいっちゃいいんだけど(罰当たり?)。
ぐったりしつつ、テレビのリメイクについて思うところが2つばかりあるのだが、それはまた別項で。
| 固定リンク
« どんと祭り | トップページ | 今朝は氷点下12度 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント