「1911」のあとに「新少林寺」を見た
仕事でいろいろあって、何をどう考えても忙しくなることはあれ暇になることはないだろうという展開。これはチャンスであると信じて進むのみである。
そんな週末、久々に中華な映画を劇場で見た。スケジュールの都合で「1911」と「新少林寺」をはしごである。ちょっとどうかなと思ったのだが、意外によい流れであった。
なぜかというと、「新少林寺」は1912年の話で歴史的にまるで続編のような流れであったことと、大陸製のせいか「1911」は「みなさんの知っている歴史を映像にしましたよ」という感じで「お話はどこだ!」と思ってしまったのだが、「新少林寺」はそれを補ってあまりある面白い「お話」だったから。
いやー堪能した。さすが香港映画監督界きってのイケメン(写真はこちらに)陳木勝だ。というのは半分うそで、しかし、いままでのベニー・チャンの監督経験が十分に生きているうえに、ほんとに少林寺映画を撮りたかったんだなあという感じがにじみ出ていた。
予告編。
舞台は、辛亥革命後軍閥が跋扈する中国。劉徳華(というかアンディ・ラウ)は少林寺一帯でぶいぶい言わせている軍人で、少林寺に逃げ込んだ敵方の将軍を「少林寺で銃など無粋」とかいいながら撃ち殺しちゃうような人であった。しかし妻(ファン・ビンビン)と幼い娘を溺愛している。その娘と内心嫌っている義兄弟の息子を婚約させることになったのだが、その席上、刺客に襲われるのですね。黒幕は腹心であったはずのニコラス・ツェ。なんとか生き延びたアンディは娘を助けたい一心で少林寺に転がり込むのだが、相変わらず「娘を助けなければ皆殺しにするぞ!」とか言っちゃってる。しかし、その後、いろいろなこと(予告編にもあるけど落とし穴に落ちたり。助けるのはジャッキー・チェンだ)があり少林僧になるものの、そのまま穏やかにすむはずではないのであった。
華仔はねえ、最初っからスターのオーラを放っていて、いくら僧になっても見つかるだろう、という感じで、途中までは「あれDVDのジャケットでは僧なのに、なんでこんな役で…」と思った。でもその変わらせ方が不自然じゃなくてよかった。少林寺の額にいらんこと書いちゃうのも(そういえば 華仔は能書家だったっけ)効いていた。
その華仔を助けるジャッキーは、少林寺の厨房係なのだが、たいそういい役である。「1911」の後だと、あれ司令官じゃなかったっけ?と思っちゃうけど。しかし「自分は武術はできない」という台詞には観客全員が「いやいやいや!」と突っ込んだと思う。ちゃんとジャッキーらしい場面もあってよかったね。
考えてみると、ジャッキーとアンディが共演するのって「七福星」以来じゃないかという気がするのだが、その間のいろいろなことを考えて、心の底からしみじみする。遙けくも来つるものかな。
そして、ニコ、「無極」を彷彿とさせる役柄なのだが、筋書きとか小道具も違うけど、それにしても成長したねえ…と心から思う。本当によかったねえ。
予告編や最後に出てくるのは本物の少林寺ではないかと思うのだが、エキストラにも少林僧がいると思う。子供の僧もそうじゃないかな。訓練のシーンを見ると、上にも書いたけどベニー・チャンはほんとに少林寺映画が撮りたかったんだなあと思う。
出てくるのも、行宇さん(本物だ−!)でしょ、くまきんこと熊欣欣でしょ。くまきんが出てくると、つい画面に向かって手を振ってしまい、自分はこんなにくまきんが好きだったのかと思う。行宇さんとくまきんの一騎打ちには血湧き肉躍った。
そして、浄能大師兄。功夫が本物だけどどこかで見たっけ誰だっけと思っていたら、エンドタイトルで気がついた。呉京じゃないか!かっこいいわけだよ。なんだか黎明に似てるね。
ということで功夫のシーンはすばらしく、ストーリー展開も間然とするところがなく、「それはお前らのもんじゃないだろ、天罰がくだってしまえ!」と思った人々も報いを受け、仏様の教えもほどよくしみて、ああ本当に面白かったなあ、と思いつつ帰途についたのであった。
唯一残念だったのは北京語版だったことで、ああ香港版を買っておいてよかったと帰ってすぐかけたのだが、日本版が出たら買っちゃうと思う。
仏様の教えがしみた主題歌。作詞はやっぱり華仔であったか。
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