『インド待ち』(アジャイ君は高田純次じゃない)
どうにも目が回るので改めて検査に行った先の待ち時間の合間に読んだ。
文庫にもkindleにもなっていないんだな(図書館で借りたのである)。
2001年に発行された本で、「ムトゥ」がヒットしたのを背景に、テレビ番組を制作する目的で「Shall we dance ?」を引っさげてインドに渡り、ムンバイ・プネー・チェンナイ・ハイデラバードをまわり、撮影所を見学したり、映画学校に行ったり、現地で上映会をしたり、映画関係者にインタビューしたり。とても豪華な旅程である。ゴヴィンダとシェルパ・シェッティーにインタビューしているのが羨ましすぎる。また、ちょうど、「Hum Dil De Chuke Sanam(ミモラ 心のままに)」と「パダヤッパ」が公開されていたときで、現地の劇場で見ていて、これまた羨ましい。
内容的にも、ゴヴィンダとシェルパ・シェッティーはとてもいい人らしいとか、アイシェに対する評価はやっぱり分かれるのかとか、歌と踊りはインド映画の魂なのかとか、映画学校の学生が「色気」「笑い」「哀れ」「怒り」「勇ましさ」「恐れ」「憎しみ」「驚き」「安らぎ」の9つの感情(マサラ・ムービーには全てが含まれるとされる)を瞬時に演じ分けるとか、インドの家庭では映画の感想をめぐって激論が巻き起こるとか、いろいろ興味深かった。
だがしかし、えーっ!と思ったこともあって。
ひとつは、巻頭の写真ページのキャプションが、「インド映画をとりまく変な人たち」「なんか変なインドの食べ物たち」と、「インド」=「変」というイメージで作っているふうがあること(これは著者である周防正之監督の責任ではないかもしれないけど)。
もうひとつは、「ムトゥ」を見ているせいか、「マサラ映画」=「ムトゥ」というイメージがあるようで、会ったインド映画人に「ムトゥ」を見たかと聞いているのはしかたないとしても(回答はほとんど「ない」とか「あれはタミル映画だから」というもの)、「Hum Dil De Chuke Sanam」について、「自分の知っているインド映画(=ムトゥ)のようではない」と判断しているように見えること。「インドの土着的荒唐無稽さをハリウッド的な洗練が薄めてしまって、インド映画ならではの面白みが減ってしまったのではないか」(39ページ)などと書いてある。その前にはタミル映画とヒンディ映画は違うということを書いているのに。
思い出したのは、「3 idiots(きっと、うまくいく)」が香港で公開された頃に、香港映画のほうではある程度名の知られた評論家が「有名なスターが出ていない」「インド映画らしくない」とコメントして一部で顰蹙を買っていたこと。大スターであるアーミル・カーンもカリーナ・カプールも出ているのに。ある意味、あれほどインド映画らしい映画はないのに。インド映画は基本的に進取の気風に富んでいると思う。
おそらく、その方も「ムトゥ」が念頭にあったのではと思うのだが、1本見たぐらいで典型がわかったような書き方をするのはどうかと思うし、素人じゃない人がお金をもらって書いている文章なんだから、狭い主観的な印象を書くのはそれはまずいでしょう。日本映画を1本見ただけの外国人評論家に日本映画がわかったようなことを書かれたら、いい気持ちはしないと思うし。タミル映画とヒンディ映画はずいぶん違うし。
自分の見たものだけを基準に語られても、と思う。
特に周防さんはプロの監督なんだから、それなりの見解が聞きたかった。
しかし、一番はそれではない。
「Hum Dil De Chuke Sanam」を劇場で見たのはいいのだが、
アジャイ・デーブガン(好き)を
こともあろうに
高田純次に似ている
と書いてある!えええええええええ。
これはアジャイ君が出ている歌舞音曲シーンですが、言うに事欠いて
高田純次!
いえ、高田純次は好きですよ。イメージ検索してみたら、いい男じゃんとも思ったよ、でも、アジャイ君が高田純次はない。
たぶん、そのころの写真だけど、この顔のどこが高田純次だ?!
もうひとつ、サンジャイ・ダット兄貴(とても好き)についても「高田純次に似ている」と書いていて、
この顔のどこがやねん!
…と思ってしまい、一瞬、眩暈が吹っ飛んだのであった。
最後まで書いたところで、もしかして、サルマンとアジャイ君を取り違えたのでは…?とも思ったのだが、それにしてもねえ。…いや、そのあと、ストーリーの説明をしていたから、やっぱり間違えていない。文中、ずっと「高田純次」呼ばわり。うーむ。
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